土屋賢二氏は現役のお茶の水女子大の教授。哲学の専門家である。その哲学者が書いた、一言で言うとユーモア・エッセイ集である。他にも著作多数の土屋氏であるが、1994年に刊行された本書がエッセイ集としては処女作に当たる。
知的な語り口であるが、笑いのツボがそこかしこに散りばめられている。いわゆるボケツッコミ的な笑いではなく、地の文に自然に溶け込むユーモアなので、ちょっと意味を考えてみると実は凄く面白い、という感覚である。だから、この種の笑いが好みに合わない人がいてもおかしくない。だが、実際に知的な人や、知的な文章を書く人、さらには私の様に知的な文章を読むのを好む人にはきっと大ウケ(準死語)であろう。
未読の方のために、引用や内容紹介は避けるが、冒頭に置かれた文章のタイトル『今日からタバコをやめられる──でなくても禁煙をやめられる』を見ただけでも、土屋氏の文章の面白さの傾向が想像できるであろう。ちなみに、このタイトルの面白さは論理学的に言えば恒真命題(トートロジー)の無意味さである。数学もそうだが、無意味なところに面白さの一端があるのだ。土屋氏は時々文章中でこの手法を用いるが、論理を重んじる哲学者の面目躍如といったところか。冒頭の一編の他、『女性をとことん讃美する』も名作である。女性が讃美すべき存在であることも極めて自明の命題であり、議論することは無意味なのだが、それをあえてやってしまうところに、土屋氏の無謀さ謙虚さと見識が滲み出ている。
他に個人的に気に入っている作品は『デタラメな日本紹介記事に抗議する』である。もちろん無意味(何度も言うが褒め言葉)で知的なユーモアに溢れている一方、ちょっと真面目な風刺感覚も効いており、土屋氏の多彩な側面が見られる一編である。
ところで、私が土屋氏の名前を始めて知ったのは、森博嗣(この人も国立大の教官)の長編ミステリ『今はもうない』の解説であった。ユーモア溢れる語り口で森氏とその作品を上品に持ち上げ、ご自分を嫌味なく卑下する文章に感服したものである。これは何時の日か著作を買わねばなるまい、と思っていたところに、ふと書店で本書を見かけたのである。書店での扱いを見る限り、結構売れているようでちょっと意外。それほど、土屋氏の文章中では、氏自身が情け無さそうに描かれているのである。
もちろん、氏の文章を複数読んでいるうちに、そんな印象は覆される。やはり、(哲学者としての評価は知らないが)文筆家としての才能は確かに持ち合わせており、かつ貴重なユーモア・エッセイストであることは間違いのないところであろう。
他に、『われ大いに笑う、ゆえにわれあり』(文春文庫)、『哲学者かく笑えり』(講談社文庫)も読んだが、どれも楽しめた。別に私は土屋氏の回し者ではない(そもそも面識は無い)。純粋に面白いと思ったから宣伝したまでである。もし土屋氏が何かのはずみでこのwebサイトを目にされたならば、感謝の気持ちをこめて、私に女子大生を5人紹介すべきである。なお、この段落は、私の自作エッセイの第2回『政治家をとことん賛美する』からのコピペで間に合わせました。
1990年刊行の作品。私にしては珍しくハード・カヴァーで購入した。現在は新潮文庫でも刊行されている。
今や、『リング』などのホラー的作品の方が有名になった感がある鈴木光司氏であるが、その種の作品しか読んだことがないとすれば、ちょっともったいない気がする。それでは余り良い読者とは呼べないあろう。私など、自慢ではないが、逆に『楽園』しか読んだことがないので、更に悪質な読者なのである。(いかん。土屋賢二氏の文章に影響されすぎのようだ)
文体を元に戻そう。本作品は、第2回日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞を受賞したものである。日本テレビでアニメ化もされた。実は、私はTVでそのアニメを見て面白いと思い、原作を購入したところ、更に面白かったと言う次第。
一言で言うと、古代、大航海時代、そして現代という時を隔てたファンタジーであり、ラヴストーリーである。こう書くとありがちな物語の様に見えてしまうかも知れないが、さにあらず。冷静な文章の運びと人物描写の巧さで作品世界に引き込まれる、とりわけ、大航海時代を舞台にした第2部『楽園』はプロット、人物描写および人物の魅力etc…全てが奇蹟的とも呼べるほどの出色の出来で、私は購入当時この第2部を何度も読み返したものである。ハード・カヴァー版にはファンタジーノベル大賞の審査員評が挟まっていたのだが、荒俣宏、井上ひさしなどの5人の選者が揃って第2章を絶賛しているのである。確かに第3部が平凡であったり、全体の筋立てにステロタイプ的な要素があるなどの瑕疵を差し引いても、第2部が存在するというだけで、この作品はかけがえのない価値を持ち続けると思うのだ。
1996年に刊行された本書は、1969年に出版され好評を博したが、その後絶版になった『デバグ数学セミナ──数学I・II・III・・・∞』という書物に若干の表現の修正などを加えたものなのである。
著者の小針晛宏氏(1932-1971)は京都大学の助教授の在任中に若くして亡くなられた数学者である。本書や、『確率・統計入門』(岩波書店・但し私は本屋で立ち読みしただけ)を見るに、かなりユーモアのある文章を書かれる方であったようだ。実際、本書に関しては、仮に数式の部分を完全に読み飛ばしたとしても楽しめるように書かれているのは凄い。
もう少し具体的に内容に触れよう。主に高校までの数学の様々なトピックについて、登場人物の対話形式で解説をしているのだが、その登場人物は、例えば「大阪船場のいとはんのおせんちゃんと番頭の千蔵」や、「オキャン娘と家庭教師の大学生」など、結構キャラが立っていて楽しめる。 また、いわゆる学生運動が盛んな時代に書かれているので、個人的にはその時代の人々の典型的な考え方に触れることができるのも興味深い。
1冊の数学参考書として見た場合には、各セクションに余り関連性がなく、数学の理論を基礎から順を追って解説するわけでもなく、ましてや問題集の機能もないので、この本を勉強するだけで数学力がつくわけではない。この点については作者自身が序文で断言している。実際、数学力をつけるには、教科書の定義を理解して、 定理や公式を自力で導けるまで理解し、必要に応じて問題演習を行うという、地道で根気の要る勉強が欠かせないと思う。特に大学受験生は、限られた時間内での処理を要求されるため、標準的と言われる問題に多数当たっておく必要もあると思う。
それでは、高校生にとって本書に意義があるとすれば何なのだろうか。まず1つは、大学以降の数学に少しだけ触れることが出来ることだと思われる。実際、本書には有名なEuler公式eix=cosx+isinxや、関数列の各点収束と一様収束の概念なども、厳密にではないが、 紹介されている。もちろん、高校教科書の知識があれば入試問題は解けるように作られているのだが、ある程度の背景を知っていることで問題に親しみが持てるということは十分にあり得る。実際、数年前に雑誌『大学への数学』で本書が紹介されたときには、そのような特徴が強調されていた。
もう1つの本書の意義は、楽しみながら数学をしている若き数学者の情熱に触れることができることであろう。私は個人的にこの点を強調しておきたいのだ。数学を学ぶ上で、「数学が好きである」ことがやはり一番の武器だと思うからだ。役に立つから学ぶわけではない
。実際、日常生活で四則演算以外の数学が直接に役立つことは余りないだろう(もちろん間接的には科学技術に大いに役立っているのは当然だが)。好きだからこそ、前述のような地道な努力にも堪えられるのだ。また、数学の公式に対する作者の姿勢は特に注目に値する。少し本文を引用する。
『加法公式くらいならともかく、半角公式や三倍角の公式、はては和を積に、積を和に直す公式が、イヤな顔せずに書けるようになったら赤信号。あんなもの、誰だってイヤですよね。それがイヤでなくなったということは、正常な人間らしい感受性を喪失して、機械人間みたいになりかけている、ということ…』
この発言の裏には、単純丸暗記的に数学を教えようとする者、学ぼうとする者への痛烈な批判が込められていると見る。このような作者の姿勢に共感し、弛まぬ努力を実行に移せる力のある高校生が多数現れたならば、巷間を騒がす“学力低下”の問題など自然に解消するだろうに、と私は時折夢想するのである。
まずは、この小説と直接には無関係な話から始めさせていただきたい。
私は、いわゆる“シュールレアリズム”に属する芸術が大好きである。それは文学、美術、音楽の全てに亘る。例えば、高校時代の私はクラシック・ギターのサークルに所属していたが、演奏会で12音技法の曲をソロで演奏して周囲から浮いていたものである。大学時代は、マグリットやデルヴォーなどの現代絵画の展覧会を選んで美術館通いをしていたこともある。この種の芸術の特徴は、鑑賞する側にある程度知識や経験の蓄積がないと楽しめない場合があることが一つ。そして何よりも、非現実的な描写のお陰で、見る側の精神状態や境遇等に応じて様々な解釈を許すことが最大の特徴だと思う。それ故、ひとたび作品の魅力を感じることができれば、飽きるということが滅多にない様に思われるのだ。
そして、カフカ『変身』は、私が知る限り、その種の特徴を最もよく顕現している小説なのである。
ある朝、平凡なセールスマンであったグレーゴル・ザムザという男が一匹の巨大な虫(おそらくムカデのようなもの)に変身するところから小説は幕を開ける。
この“変身”の理由については小説中で全く説明されていない。しかも、当のザムザ本人(既に虫だが)は、その状態を全く不思議だとは思わず、思い通りに動かせない身体に戸惑いながらも、一刻も早く仕事へ行くことを考えている。家族(両親と妹)をはじめとする周囲の人々は、もちろん深刻に驚くのだが、それでも、虫への変身というありえない現象を目の前にした驚きとは異なる。つまり、全ての出来事が極めて日常的に淡々と描写されるのだ。
この巨大な虫は何を表現しているのだろうか。小説の中には一切の説明がなく、カフカ自身も一貫した見解を示していないだけに、無数の解釈が可能である。一つの例としては、カフカ自身の自伝であるという解釈があり得る。解説によると、カフカは父親との対立相克を経験しているとのことで、確かに小説にもそのような記述がある。また、セールスマンである主人公の葛藤は、現実に労働災害保険協会の役人であったカフカの職業観を象徴しているとも取れる。更には、当時のヨーロッパにおけるユダヤ人の立場や、第1次大戦直前のドイツの不安な情勢と結び付けて論じることも可能であろう。
しかし、これらの解釈のみでは不十分極まりない。なぜなら、1つにはカフカ自身がこれらの解釈とは相容れない見解を述べていること。もう1つの理由は、明らかに時代や地理的な制約を超えた内容の作品であること。現代にも通じる無難な解釈例としては、硬い外骨格に閉ざされ自由に外界とコミュニケーションが取れない虫なる存在は、誰もが大なり小なり持っている閉塞感や、一種の“引きこもり願望”を象徴している、というものが考えられる。尤も、これでも十分な読解が出来た気はしない。恐らく、答えを出す必要はないのであろう。訳者の高橋義孝氏が述べているように、「文学とは、それ自身が答え」なのである。
とは言え、以下では、小説全体のテーマに関する個人的な解釈を強いて述べてみたいと思う。
ぎりぎりでネタバレにはなっていないと思うが、実は、話が進むにつれて小説の視点が少し変わるのだ。詳しく言うと、冒頭ではほぼ全面的に虫に変身したザムザの視点で描かれるのに対し、中盤以降、部屋の外に居る家族、家政婦、居候などの人々の心の動きの描写も増えてくる。彼らのザムザに対する接し方、考え方は一人一人異なっていて、しかも時間の経過と共に変化していく様子が極めて簡潔に描かれる。
そして、(さすがに細かくは書けないが)小説の結末。一見静かだが、私にとってはかなり意外で、読後に余韻が残るものだったのだ。
ここまで読んだとき、もしかしてこの作品の真の主人公は「家族」だったのではないか、という気がしてきた。ドア1枚隔てただけの部屋に蠢いているザムザは、彼ら家族にとって、一体いかなる存在なのか。ザムザが家族にもたらしたものは何だったのか。そして何より、何故ザムザは虫となって彼らの前に現れねばならなかったのか。このような点に着目することによって、より作品世界にのめり込めるかも知れない。余り自信はないのだけれど。
話は変わるが、私の好きな作家である安部公房の初期作品は時々カフカと比較される。両者は共にシュールレアリズム的文学を作っていると言う点で共通しているが、細部はかなり異なるように思われる。強引に美術に例えると、キリコとマグリットが、いずれも精密なシュールレアリズム画家であっても作品の特徴が明確に異なるようなものである。安部の初期作品はどちらかと言うと物語の寓話性で読者を引きつけるが、カフカの本作品は、本来のシュールレアリズムが持つ多義性が最大の魅力であると思う。
私にとって、きっといつまでも心に残る小説になるであろう。
1974年以降、ドリフターズの正式メンバーとなり、“東村山音頭”“ひげダンス”“変なおじさん”“バカ殿”などの卓越したギャグorキャラクターで、常に日本のコント界のTOPを走り続けた志村けんの自伝的エッセイ集。
構成は、2、3頁程度の章が全部で100個以上、というもの。朴訥な語り口の文体は決して上手いとは言えないかも知れないが、1つ1つの章が短いのでテンポよく読める。彼の生い立ちから始まり、下積み時代・「全員集合」時代・「だいじょうぶだぁ」時代のそれぞれのエピソード、彼と関わりの深い人物についての評など、話題は豊富。
所々に、お笑いの中の一分野(作り込まれたコント)においてTOPを走り続けてきたという自負が滲み出てくるのは流石である。例えば次のように。
「あいつはいいよな」って、いつも人をうらやましがっている連中も多い。僕らがセットを組んでコントをやっていると、「志村さんはいいですよね、セット組んでもらって」だって。
バカヤロー! ここまで来るのに何年かかってると思ってんだ。
その一方で、例えば加藤茶やビートたけしなどに対しては手放しで賞賛。ダウンタウンや爆笑問題についても、凄いところはきっちりと評価してみせる。後輩筋に当たるダチョウ倶楽部などの年下の芸人への視線も暖かい。
紛れもなく一つの道を究めた一流の人。このような人のことばに触れるとき、日常中途半端に生きている我が身が恥ずかしく思われる。そして今日から少しでも力強く生きていこうと思える。
本書は、今年(2003年)に文庫版が発売され、書店でたまたま目にした私はタイトルに魅かれて衝動買いしたという次第。とは言え、実は2000年に単行本(解放出版社)が発売された際、結構話題になっていたらしい。
著者の森氏はフリーのTVディレクター。1999年5月にフジテレビで放送された番組「放送禁止歌〜唄っているのは誰? 規制するのは誰?」の制作者である。本書はその番組が完成に到るまでの経緯や、いわゆる“放送禁止歌”にまつわる様々な背景を克明に記録したノンフィクションである。
実は、読み始める前は、タイトルからもっと興味本位で薄っぺらい内容を想像していた(それはそれで面白いこともある)のだが、良い意味で裏切られた。かなり充実したノンフィクション作品である。以下、本書の美点と思われる項目を列挙していくことにする。
「毒」──何と魅力的な言葉であろう(ここでは比喩表現ではない本来の意味での毒物のこと)。ミステリの世界では欠かせないギミックであることは当然だが、現実世界でも毒物を用いた事件は時々発生し、いずれも犯罪史を彩る重要な事件として扱われている。私の世代にとっては、1970年代に起こった青酸入りコーラ事件が衝撃的であった。当時の小学生はこの事件を通じて、道端に置いてある飲食物に手を付けるのが危険なことだと学ぶと共に、短時間で死に至る強力な毒物「青酸化合物」の存在を知ったのだった。記憶に新しいところでは、1995年に地下鉄の駅に神経ガス「サリン」をまく無差別殺人事件を通じ、毒ガスというものの恐ろしさを知ったのであった。
これらの毒物について、致死量や臨床症状など細かいことをもっと知りたい、と思うのは当然の欲求であろう。そして、本書『毒物雑学事典』はこれらの疑問に的確に答えてくれる。科学を一般的に易しく解説することを主目的としたブルーバックスシリーズの一冊ということもあり、読みやすさは折り紙付き。そればかりでなく、興味ある者にとっては、より詳しい知識を得るための入門書にもなり得る。たとえば、サリンの化学式も巻末付録にちゃんと掲載されている。1984年に初版された本書は、10年以上時代を先取りしていたと言えるかもしれない。
本書からは、他にも様々な知識を得ることができた。ごく一部だけを列挙すると、
これらの雑学を面白いと思える人には、『毒物雑学事典』を安心して薦めることができる。
『ぼくがぼくであること』は、紛れもなく児童文学の傑作である。
私が初めて読んだのは小学4年生の頃。当時は実業之日本社から刊行された単行本で読んだ。初読時から面白さに引き込まれ、高校生の頃まで、何度も何度も読み返した記憶がある。その後、家が引越しをする際、他人に譲って処分したが、成人後、ふとしたことで角川文庫版の存在を知り思わず購入。なお、岩波少年文庫でも読める。
主人公の平田秀一は小学6年生。優秀な兄2人、姉1人、妹1人と比べると劣等生。典型的“教育ママ”の母親には嫌な勉強を強要され、妹や旧友からは蔑まれる日々。夏休みのある日、ふとしたはずみで家出をしてしまった秀一。家出先の農家の少女夏代やその祖父と接し、葛藤していく過程で、秀一は自己の存在意義を確立し、成長を遂げていく物語。
と、大雑把な筋を書いてはみたものの、これでは面白さが半分も伝わっていないような気がする。あらすじから離れて本書の魅力を語ってみたい。まず、基本的なところであるが、文章が平易かつ流麗で。畳み掛けるようなストーリー展開と相まって一気に読める。扱われるテーマは「自己の確立」と「家族のあり方」。特に後者は重いテーマであり、下手をすると説教臭くなる恐れもあるのだが、本書では、実にサラリと、それでいて印象深く描かれている。
私が幼い頃は、主人公の秀一に感情移入していたので、主に「母親憎し」の気持ちで読んでいたと記憶している。それでも十分に面白く読めるのだが、今になって読み返してみると、当時はいまひとつ理解できていなかった大人たちの言動に対し、ある種の共感を覚えたりもする。単純に痛快な冒険譚としても読めるし、より深い物語としても十分に鑑賞に堪える作品である。強いて難ずるとすれば、1969年に刊行されたこともあり、秀一の2人の兄の発言に当時の学生運動を背景とする時代性を感じることか。もちろん、時代背景を理解していれば特にモンダイはないだろうし、この点を除けば、全く古さを感じさせないのも凄いことである。
なお、著者の山中恒氏(1931〜)は児童文学者。良質な児童小説を多数書いていて、映像化されたものも多い。TVの「あばれはっちゃく」や大林宣彦監督によって映画化された「転校生」「さびしんぼう」(それぞれの原作は『おれがあいつであいつがおれで』『なんだかへんて子』)など。実は、『ぼくがぼくであること』も1973年頃のNHKでドラマ化されたらしいが、現在はテープが失われて再放送は不可能とのこと。少し残念である。
友成純一(1954〜)は、元々はワセダ・ミステリ・クラブに所属し、1976年には雑誌「幻影城」(泡坂妻夫や連城三城彦を生んだ有名なミステリ誌) の新人賞評論部門に入賞するなど、一見ミステリ畑の人か、と思われる経歴を持つが、1985年に『凌辱の魔界』で小説家デビューした後は、次々とスプラッタ小説を書きまくっていく。“スプラッタ”とは血が飛び散る様子。即ち“スプラッタ小説”とは、人が切り刻まれ、苦しみ、のたうちまわり、殺されていく過程を克明に描写した小説のことである。
本書『獣儀式』は長編小説「狂鬼降臨」と、「殺人餓鬼(ホラー フリーク )ショートショート」が収録されている。殊に「狂鬼降臨」は、日本大衆文学史上に残る奇書中の奇書であると共に、スプラッタ小説の最高峰に位置する小説の一つである。
「狂鬼降臨」は、一言で言うと、地獄から湧き出て来た「鬼」たちによって世界が蹂躙される物語。この「鬼」は地獄での任務そのままに、視界に入る人間たちを片っ端から残酷な方法で殺していく。肛門から口まで串刺しにしたり、村人全員の両足の骨を折って学校の体育館の中に監禁して太らせ、ブロイラー状態になったところで処刑したり……もう、凄まじいとしか言いようがない。
何しろ相手が地獄の鬼だけに別次元の強さ。彼らの超人振りも、読んでいて心地よい。きっと、近代兵器を備えた軍隊でも全く歯が立たないのであろう(その辺の細かい描写は無いのだが)。見つかれば必ず殺される。そんな状況に置かれた人間達の残虐さをも、見事に描き切っている。
スプラッタ文学の性質上、万人に薦められる小説では無いが、この種の物語に興味がある方にとっては、絶対に見逃せない作品である。
ところで、日本の生んだスプラッタ小説といえば、もう一つ、綾辻行人氏の『殺人鬼』『殺人鬼II』も傑作。こちらは、ミステリ作家の手によるものなので、確かに残虐なスプラッタ場面がメインではあるものの、ラストには秩序ある結末(ただしそこには“救い”要素は皆無)が用意されている。一方、「狂鬼降臨」の後半は、死者が蘇ったり、切っても死ななかったりの混沌振り。個人的には、これによって残虐性が薄れてしまうのを多少物足りなく感じるのだが、破壊につぐ破壊の行き着く先、ラスト1行には、むしろ“救い”を感じてしまうのは私だけだろうか。
なお、「殺人餓鬼(ホラー フリーク )ショートショート」も水準以上の面白さ。そして、著者自身による文庫あとがきからは、スプラッタに対する熱い思いが伝わってきて、十分に読みごたえがある。
本書はいかりや氏の自伝的エッセイ。文章は素朴で読みやすい。オープニングは、早世した元メンバーの荒井注さんへの追悼の章。その後は、時系列的に、生い立ちからドリフターズへの加入、新生ドリフの誕生、「8時だヨ!全員集合」、俳優としての活躍…などが描かれていく。
記述を額面通りに受け取るならば、いかりや氏の言動からは“卓越した才能”は余り感じられない(自分のことを書くので謙遜が入る可能性はあるわけだが)。実際、コメディアンとしての才能だけを取れば、加藤茶や志村けんの方が上であろう。ミュージシャンとしては、「いかりや奏法」(エレクトリック・ベースの奏法の一種)の創始者として後世のプレイヤーに影響を与えていることは間違いないが、彼自身のプレイヤーとしての業績は大きくない。この辺り、紛れもないコントの天才であるメンバー志村けん氏の著書『変なおじさん』と読み比べてみるのも一興であろう。
たとえ、いかりや氏が“天才”で無くても、その生き様は、逆に天才では真似ができない煌めきを感じさせる。新生ドリフを結成し、コミックバンドとしての一歩を踏み出そうとしていた1964年頃のこと。お笑いの経験もなく、音楽の才能にも恵まれないメンバーたち(何しろ荒井注氏は“ピアノの弾けないピアニスト”だったらしい)を率いる苦労は並大抵ではなかったに違いない。
しかしドリフは、個々人の才能のみに依存せずにメンバー同士の“位置関係による笑い”を確立することに成功する。いかりや氏自身の表現を引用すると、
「嫌われ者の私、反抗的な荒井、私に怒られまいとピリピリしている加藤、ボーっとしている高木、何考えてるかワカンナイ仲本」ということだ。更にTBSの居作昌果プロデューサーとの出会いにより、TV出演の機会も増え、徐々に名声を高め、「8時だヨ!全員集合」の大ブレイクに繋がるのである。
いかりや氏には、メンバーの個性を的確に把握する眼力、好機を得られるだけの運の良さ、そして何といっても好機を逃さずに事を成し遂げる粘り強さがあったのだ。
「全員集合」における数々のエピソード(3人ドリフや停電事件等)の裏話も楽しく書かれていて、私のような当時のファンにとってはたまらない。また、晩年は俳優として高く評価されていたと思うが、演技の世界に本格的に踏み込んだのは「全員集合」終了後であり、演技歴は実は長くない。本書の後半では、いかりや氏が周囲の俳優やスタッフに謙虚にアドバイスを請う姿が描かれるのだが、その実直な姿には感動を覚える。
数ある“タレント本”の中で、本書が出色の一品であることは間違いないであろう。
追伸:この文章は2004年の3月21日に書いている。前日の3月20日に、ザ・ドリフターズのリーダーであり、私の小学校時代の偉大なヒーローの一人でもあるいかりや長介さんが逝去した。1931年の11月1日生まれなので、享年72歳。心からご冥福をお祈りしたい。
著者のあさのあつこさん(1954〜)は児童文学者。女優の浅野温子さんとは別人である。1996年に教育画劇から発行された『バッテリー』は野間児童文芸賞を受賞した出世作で、2004年に文庫化された。続編の『バッテリーn』(現時点ではn=2,3,4,5で、完結していない)は教育画劇から刊行されている。
主人公は野球少年の原田巧で、本書では小学校を卒業したばかりで中学入学寸前。彼は投手の才能は天才的。しかし、己の力と野球観に絶対的な自信を持っているため、頻繁に周りと衝突を起こす。父親の転勤のため、山間の祖父の家に転居。そこで出会う祖父の洋三(元・高校野球の監督)や、同い年のキャッチャー永倉豪をはじめとする人々との触れ合いを通じて、野球選手としてのみならず人間として成長を遂げていく……と、そうアッサリとはいかないのが『バッテリー』という物語の特性なのだ。
あさのさんは、文庫あとがきに次のように書いている。
生の身体と精神を有するたった一人の少年を生み出したかったのだ。自分自身という個に徹底的に拘る身体と精神。(中略) 自分を信じ、結果のすべてを引き受ける。そういう生き方しかできない少年をこの手で書ききってみたかった。
このように、主人公・原田巧の周囲と決して調和し得ない性格こそ、物語の中核である。度々周囲との軋轢を生み出す彼は悩む。両親をはじめとする周囲の人々も悩む。悩んだからといって容易に状況は好転しない。「必ずわかりあえる」とか「やればできる」などの綺麗事は通用しない。この辺は実にリアルだと思う。
もうひとつ好ましいと思ったことは、人物描写が巧みで、しつこくないということ。女性作家の小説の中には、思春期の少年の描写が過剰気味に感じられるものがあるのだが、本作の描写であれば、男性でも十分に納得がいくであろう。また、主人公を取り巻く準主役級のキャラが、実に魅力的に書かれているのも良い。
対象年齢は小学校高学年以上、というところだろうか。とは言え、単なる児童文学を超えた風格を備えているので、広い世代の鑑賞に十分に耐え得るはずだ。敢えて難ずるとすれば、続編のある物語だけに、大イベントによるカタルシスが得られない位だろうか。その代わり、読後、静かな余韻に浸ることができるであろう。
本書をこの場で採りあげるには若干の抵抗がある。というのも、テーマがプロレスであるため、プロレスに全く感心が無い人(世間的には決して少数派ではないと思う)にとっては興味が持てない内容だと思われるからだ。でも、少しでもプロレスを楽しんだ経験がある方なら、きっと楽しめると思う。
著者のミスター高橋氏は、長年にわたり日本最大のプロレス団体である新日本プロレスのレフェリーを務め、一時はマッチメイカーの大任を担い、プロレスの裏も表も知り尽くしている人物である。出版当時、本書は“それまで外部に秘されてきたプロレス界の内幕を当事者が明かした衝撃の暴露本”と宣伝され、ベストセラーにもなった。確かに暴露本としての側面を持っている。内容をいくつか大まかに紹介すると
このように、長年のプロレスファンにとっては衝撃的な真実が多数紹介されている。
とは言え、この本の価値は、単なる“暴露”に留まるものではないと思う。一般的な“ノンフィクション作品”として、非常にすぐれていると感じるのだ。最初の頁から最後の頁に至るまで、ダレる箇所がなく、様々なプロレスラーの描写も生き生きしている。何にも縛られず自由に書いていることや、著者のプロレスに対する愛(現在はプロレスから離れているのだが)が根底にあるからであろう。
たとえばアントニオ猪木について。本書の中で、猪木に対する批判がいくつも散見される。たとえば、グレート・アントニオ事件や、第1回IWGPでのホーガン戦での失神事件(いずれもファンには有名)に関するものなど。とは言え、批判的な記述であっても、最終的には、猪木の強烈な個性やプロレスラーとしての凄さが強く印象に残る。
著者がこの本を書いた動機のひとつに、現在のプロレスが、k-1やPRIDEなどの真剣勝負を建前とする格闘技に押され、人気が低迷していることがあるという。本書のサブタイトルにあるように「全てのプロレスはショーである」ことを世間に明かした上で、現在の米国のWWEのように、エンターテイメントとしての充実を目指すべし、というのが著者の主張である。この主張には賛否両論あろうが、プロレスへの愛に満ち溢れた本書は、ファンならば必読だと思う。