プライベート・ルームは、小奇麗に整頓された事務所兼応接室という印象。南の窓際に置かれたデスクの上には、ファクシミリを兼ねている電話機が1台置いてあるのみである。ただ、オーナーが寝泊りしている場所のはずなのに、全く生活臭がない。更に、上質なソファの脇に梯子が立てかけてあるのは少々場違いだ。この2つの疑問のうち、前者については次のオーナーの言葉ですぐに解消された。
「アトリエはこちらの階段の上になります。私は普段上で寝ています。行きましょう。急なので足元に気をつけてください」
普通の民家で天井裏の物置に設置するような、折りたたみ式の急な階段を上ると、そこは階下とは全く印象が異なり、少々乱雑な部屋であった。北に面した壁際にはセミダブルのベッドが置かれ、ベッド脇の背の低い箪笥の上には、使用済みの食器などが無造作に置かれていた。部屋の東側にはドアが1つあったが、これは2Fの廊下に繋がっているのだろう。部屋の南側は文字通りのアトリエで、キャンバスにセットされた数枚の未完成作品と、額装された完成品が壁に3点飾ってあった。
「へえ、それでは見せていただきます。私は美術が結構好きで、暇さえあれば結構色々な美術展を1人で見て回るのが趣味なんですよ。自分では創作しないんですが」
私のこのことばを聞いたオーナーは、一呼吸置いた後、
「そうなんですか。詳しい方に見ていただくのはちょっと恥ずかしくて緊張しますね」
と言った。このときのオーナーの顔を見て、私は少し驚いた。昼間に初めて会って以来、一度も笑みを絶やさない好男子であったはずが、かなり険しい表情になっている。私は作品に目を移し、細かく鑑賞した。作風は穏やかな印象派風で、正直な所、特別に目を引く要素があるとは思えない。10分ほどかけて、その場にあった未完成作を含む全作品を一通り見終わった私は、次のように挨拶をした。本心ではなかったが。
「いやあ、どうもありがとうございました。非常に結構な絵でした。楽しませて頂きました」
「そう言って頂いて光栄です。下でアイスコーヒーでもいかがですか」
我々は急な階段を降り、私はソファに座り、オーナーはコーヒーの支度を始めた。そのときの会話から抜粋。
「主に東京の方に出品されているんですか」
「あ、ええ、そうですが」
「それでしたら、絵原画右衛門先生とも面識がおありになるでしょうね」
「えはらがえもん? いえ、その方の名前は存じ上げませんが」
「そうでしたか」
その後、15分ほどの間、特筆することもない雑談を交わしていたが、ふと腕時計を見ると19時50分。10分後には『お笑い老若男女』がはじまる。部屋に戻らねば。そのことをオーナーに告げると、
「凄い人気番組のようですね。喬君も毎週観てると言ってました。私は自分ではテレビを観ないのでよく知らないのですが。このプライベートルームにもご覧のようにテレビはありません」
との返事。私は軽く頭を下げて、入ってきたのと同じドアから1Fの廊下に出た。
浴室の前を通ると、中から微かな水音。まだミカが入っているのか、それともルイに替わったのか、この時点では判らない。それにしても解せないのは、オーナーとトムが嘘をついていることだ。具体的には、『本業は画家で、その方面ではそこそこ名が知られている』の部分だ。私は創作こそしないが、かなりの美術通を自負している。仮に引用した発言が真実だとすれば、私は以前に作品を目にしていてもおかしくないのだが、先程見たところ、明らかに初見の作品だった。しかも、東京画壇の重鎮である絵原画右衛門氏の名前を知らないのはおかしい。もっとも、美術に余り興味のない多数の人は知らなくて当然なのだが。最後に、本業の画家にしては技術レベルがいかにも稚拙であった。なぜこのような誤魔化しを弄する必要があるのだろう。
そんなことを考えながら中央階段にさしかかった。廊下には冷房がないので汗ばむほどの熱気なのだが、階段を3段ほど上ったところで、ふと涼しい風を感じた。周囲を見回してみると、踊り場の南に面した壁の最上部に小さな窓があり、そこから風が吹き込んでいたのだ。プライベートルームにあった梯子の意味が判った気がした。窓はほぼ2階の窓と同じ位の高さにあり、身長170cmそこそこの私では、ジャンプしても窓枠に飛びつけるかどうかすら怪しい。きっとあの窓の開閉のために使う梯子なのだな、と納得したところで2階に辿り着き、自分の部屋のある西の方へ左折しようとしたそのとき……