2階の階段脇の自動販売機の前に(見取り図には書かれていないが)ベンチがある。そこにゴンが1人で座って文庫本を読んでいたのだ。超肥満体に『大和魂』と白地に黒で書かれたTシャツ(しかも袖口に穴が空いている)を身につけ、下半身はカーキ色の短パンである。この自動販売機前のスペースは、踊り場と隣接しながらも完全に壁で遮断されているため、階段の冷気が届かず、ゴンは汗だくになっていた。私は思わず訊いた。
「何でこんな所で本を読むんだ。部屋で窓を開けている方が涼しいのに。もしくは廊下の窓を開けるとか」
北に面した廊下の壁にはいくつかの窓があるのだが、いずれも鍵が下りているようだ。
「そんなの人の勝手じゃないですか」
「いつからここにいるの」
「7時30分頃に2階に上がってからすぐですよ。トムとルイさんと僕はそれぞれの部屋に入り、直後、僕だけはこの有栖川有栖『孤島パズル』を持って廊下に出た、というわけです。あと、トムが10分前にトイレに行って、9分前に自分の部屋に戻りました」
「最後の話は聞いてないんだけど。それなら、今誰が風呂に入っているか判るよね」
「ミカさんですよ。まだ2階に上がってきていませんから。でもあと2分以内に上がってくるでしょうね」
「なぜ判る」
「『お笑い老若男女』がもうすぐ始まるんじゃないんですか。さっきの卓球の時間に番組を気にしていたようですから…おっと、噂をすれば」
階下から駆け足の音が響いてきた。あっという間に2階に辿り着いたミカは、すぐ左に居る我々2人に気づく様子もなく、右折して廊下を駆けていった。桃色のTシャツは、食事の時とは違うものだ。きっと浴室で着替えたのだろう。
「じゃあ、私は部屋に戻ろう」
と言ってその場を辞した私は、自分の部屋に向かった。そのとき、背後からやや焦り気味にドアをノックする音、そして声。
「ルイ、私は上がったから、次はルイがお風呂に入る番だよ」
自分の部屋のドアノブに手を掛けながら、私は横目でミカの動作を眺めていた。こちらには気づいていないようだ。随分前に別れた(と言うより一方的に別れを告げられた)恋人。もう未練も傷も残っていないはずなのに、なぜか気にかかってしまう。部屋の中のルイの返事を確認し、大急ぎで自室に入り、テレビのスイッチをつける……はずが………
私は目を疑った。ミカは部屋に戻らず、そのまま2階の廊下を直進し、突き当たりのドア、すなわちオーナーのアトリエのドアを静かにノックしたのだ。ドアが細く開き、すかさずミカは中に入った。もちろん開けたのはオーナーに決まっている。
余りにも意外な事態に、私の心は揺れに揺れていた。一体どういうことだ。しばし、ドアの前で呆然としていた。すると、水色の無地のTシャツにホットパンツのルイが、着替えが入っていると思われるビニールの袋を左腕に抱えて部屋から出るのが見えた。呆然としているところを誰にも見られたくなかったので、慌てて自室に入り、ドアを閉めた。