トムが殺された。余りの出来事に、私は瞬間茫然自失した。しかし、このような時にこそリーダーとしての力量が問われるはず。私は即座に次の手を打った。
「ゴン、今すぐオーナーに状況を知らせて、連絡してもらってくれ」
「はい、わかりました」
ゴンは脱兎のごとく部屋を出て、右手の方へ消えていった。
私は現場の状況をじっくり観察してみた。もちろん、警察の捜査の邪魔になることを恐れ、何にも直接手を触れていない。部屋のドアの鍵が開いていたことは既述したが、南に面した窓は、鍵ばかりではなく、窓そのものも開いていた。出血量は非常に多く、死体から1メートル以上離れた場所にまで血痕が認められた。直接手を触れていないし、医者でもないので詳しいことは判らないが、どうやら腹部と胸部の少なくとも2箇所をナイフのようなもので刺されていると思われた。血に染まったタンクトップの2箇所に穴が開いているように見えるからだ。トムの顔に目を移してみると、恐怖と驚きと痛みの全てを体現するかのような凄まじい表情。私は思わず目を逸らした。
そして凶器は…見当たらなかった。
階段をけたたましく上る音が聞こえてきたので振り向くと、オーナーが駆け込んできた。変わり果てたトムの姿を前にして
「た、た、喬。誰がこんな……うお〜…」
自分の衣服が血に染まるのも顧みずにトムの死体に駆け寄ると、あとは言葉にならない慟哭。血が繋がっていない遠い姻戚関係のはずなのに、これほどの悲しみが生じるとは。私は思わず掛ける言葉を失った。そのとき、またもや入り口で人の気配。
ルイだった。おそらくオーナーの慟哭を聞き、何事かと駆けつけたのだろう。これから彼女が目にするのは、愛する男の死という現実なのだ。普段のルイからは考えられないような驚きの表情を浮かべながら、泣き続けるオーナーの傍に歩み寄ったルイは、暫しトムの死体を眺めた後、突然狂ったように、部屋の中を歩き回り始めた。伏せたり立ち上がったりしゃがんだり、いきなり窓からベランダへ出て下を覗き込んだり(飛び降りるかと思い、私はヒヤリとした)、完全に平静さを失っている。
修羅場。
そこへ、ゴンが戻ってきた。泣き叫ぶオーナーと狂ったように徘徊するルイを見て一瞬たじろいだ様子だったが、顔色一つ変えていない。
「ゴン、警察が来るのは何時ごろになるだろうか」
「警察…あ、チーフ、すみません。連絡してません。オーナーに『トムが何者かに刺されたようです』と報告したら、オーナーがあっという間にプライベートルームを飛び出して行かれたものですから」
普段は緻密な仕事振りを見せるゴンらしからぬ失態である。叱りつけようかとも思ったが、何せこれほどの非常時である。冷静なゴンがミスをしてもおかしくはないと思い直し、
「そうか、仕方ない。私が警察に電話してくる。オーナー、部屋の鍵は開いていますか」
慟哭を続けるオーナーに替わり、ゴンが次のように応えた。
「開いてますよ、何しろオーナーはあっという間に飛び出して行かれましたから」
「そうか。じゃあ、私は今から電話をかけにいくから、ゴンはこの2人とミカに声をかけて、階下の遊技場に集合してもらってくれ」
「はい、わかりました」
私は部屋を出て、中央階段から階下へ急いだ。走りながら、今のゴンの話に不審な点があったことに気付いた。オーナーとミカは一緒ではなかったのだろうか。尤も、この時点で詮索しても仕方がないこと。後で皆に聞けばはっきりするだろうし、それに事件と関係があるかどうかも判らない。
プライベートルームのドアを開けて中に入った私は、デスクの電話の受話器を取り、110を押そうとした。ところが、発信音が全く聞こえない。電話機本体の電源はONになっているにもかかわらず。幾つかの操作ボタンを試してみたが駄目であった。ふと、背筋に冷たいものが走った。嫌な予感がしたのだ。電話機の配線をチェックしたところ、案の定、コードが鋭い刃物のようなもので完全に切断されている。
食事中のオーナーの話だと、1階の小ラウンジに公衆電話があったはずだ。そちらも切断されている可能性があるなと考えつつ、小ラウンジの玄関脇の公衆電話の所に辿り着いた。真っ先にコードを調べた所、やはり、こちらも切断されていた。
ということは、ここは完全に外界と切断されてしまったというわけだ。警察もすぐには呼べない。オーナーがあのような状態だけに、ここは自分がしっかりせねば。まもなくゴンが皆を呼び集めて降りてくるはず。私は一足先に遊戯室兼食堂に入り、部屋の蛍光灯を点けた。時刻は8時53分。特に目的なしにテレビのスイッチを入れたところ、50分番組である『お笑い老若男女』は既に終了していたが、その代わりニュースが始まっていた。トップニュースは…
『今日午後1時頃、●▲県■★町のホテル「清風荘」の裏の崖が地すべりを起こし、ホテルは大量の岩石や土砂に潰されて半壊。3名が死亡、8名が行方不明、12人が重軽傷を負いました』
我々が泊まる予定だったホテルの災害が報じられていた。我々はタッチの差でこの災害には巻き込まれずに済んだわけだ。ところが、ここ『佐津尽ペンション』でも一人の人間が死んだ。明らかに災害ではなく、人の手によって。
8時58分、ゴンを先頭にして、ミカ、ルイ、そしてオーナーの順に遊戯室に入ってきた。ミカは怪訝そうな表情。ルイは先程とは打って変わって落ち着きを取り戻しつつあるようだ。しかし、オーナーは、未だに泣きじゃくり続けている。好男子が台無しである。
皆が着席した所で、私は口を開いた。